Jun 222018

新しい検地と、新しい年貢

畿内近国を中心とした幕府の領地にて、延宝期に実施された検地を「延宝検地」と呼んでいると言われています。これは、田んぼや畑、また、屋敷の土地の測量だけでなく、山、野、また、そのほかの土地において、将来的な開発の可能性のある場所をも対象にして実施されたものであるとされ、その検地の結果は、土地の台帳とされている「検地帳」に明記され、村で保管されることとなっていたようです。先に挙げた山論の論所も、この検地帳に測量結果が記されていたとされています。この「検地帳」には、のちに「追記」されたものがあることが確認できるようで、その内容は、小物成地の中で、小物成山に対してだけ課された年貢の定米の増額を命じたものであったとされています。畑村のケースをみると、測量結果に相当するように、大体の年貢額は評価分に値することが分かっているようです。つまり、様々な土地活用が想定される小物成地の中でも、この場合小物成山だけを対象として増税されたということが言えるのではないでしょうか。これは、先に例に挙げた天明期の山論において、畑村側が山の歴史として記す内容に一致していると言えるでしょう。そこで注目すべきなのは、そのプロセスであり「分検絵図」と検地帳への追記を村に命じたという事実が記されていることではないでしょうか。ここで挙げられた延宝期の検地帳を畑村以外で見てみましょう。これまでの調査範囲内とされているが、検地帳への「追記」という共通した事実を確認できたと言えるでしょう。小物成山の開発耕地へ課された年貢は、新開拓地であったために、見取によるものとして設定させられたと言われているそうです。  

May 222018

日本の地図の歴史

日本では「田図(でんず)」とよばれる、大化の改新(645年)で土地の測量を行なった時の田や国有地を記したものが、最古の地図として確認されているものになりますが、現存していません。現存するもので最も古いのは、奈良時代の751年の東大寺領荘園の開発状況を描いた「東大寺領近江国水沼村墾田図」です。平安時代に全国を行脚して見聞を広めていた僧侶行基による「行基図」が、墨で書かれました。行基本人によるもではないといわれてます。測量データに基づくものではなく、絵地図ですが、蝦夷や琉球を除く、現在の日本列島の姿に近い形が描かれています。各国の位置関係が分り、江戸時代初期に至るまで重用されました。 1745年に生まれの伊能忠敬は農家に苦境に理解を示す地主でありましたが49歳で家業を譲り、西洋から輸入された天文学と暦学を勉強しました。忠敬は地球、世界の大きさに関心をもちました。忠敬が初めて測量と天体観測に蝦夷地に出発したのは55歳の時です。息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭とともに蝦夷地へと向かいました。測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法で、毎日40kmを移動しつづけました。蝦夷地滞在は117日間にも及び、測量データをもとに地図を完成させたそうです。第二次測量は230日かけて伊豆から太平洋側北端の尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。このときは歩幅で測るのではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使い測量しました。その後も日本全国計17年に測量は続きました。忠敬は弟子の間宮林蔵の蝦夷地の調査のデータを引き継ぎ、伊豆七島以外の測量を終え73歳で没します。死去の3年後、忠敬のデータに基づき、1821年「大日本沿海輿地全図」が完成します。「伊能図」とも呼ばれ、ほぼ正確な形で日本列島が把握できたことになります。ただ土地の高低の測定されていません。