May 222018

日本では「田図(でんず)」とよばれる、大化の改新(645年)で土地の測量を行なった時の田や国有地を記したものが、最古の地図として確認されているものになりますが、現存していません。現存するもので最も古いのは、奈良時代の751年の東大寺領荘園の開発状況を描いた「東大寺領近江国水沼村墾田図」です。平安時代に全国を行脚して見聞を広めていた僧侶行基による「行基図」が、墨で書かれました。行基本人によるもではないといわれてます。測量データに基づくものではなく、絵地図ですが、蝦夷や琉球を除く、現在の日本列島の姿に近い形が描かれています。各国の位置関係が分り、江戸時代初期に至るまで重用されました。

1745年に生まれの伊能忠敬は農家に苦境に理解を示す地主でありましたが49歳で家業を譲り、西洋から輸入された天文学と暦学を勉強しました。忠敬は地球、世界の大きさに関心をもちました。忠敬が初めて測量と天体観測に蝦夷地に出発したのは55歳の時です。息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人、それに馬2頭とともに蝦夷地へと向かいました。測量は一定の歩幅(70cm)になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法で、毎日40kmを移動しつづけました。蝦夷地滞在は117日間にも及び、測量データをもとに地図を完成させたそうです。第二次測量は230日かけて伊豆から太平洋側北端の尻屋崎までの東日本太平洋側の測量です。このときは歩幅で測るのではなく、一間(約180cm)ごとに印を付けた縄(間縄=けんなわ)を使い測量しました。その後も日本全国計17年に測量は続きました。忠敬は弟子の間宮林蔵の蝦夷地の調査のデータを引き継ぎ、伊豆七島以外の測量を終え73歳で没します。死去の3年後、忠敬のデータに基づき、1821年「大日本沿海輿地全図」が完成します。「伊能図」とも呼ばれ、ほぼ正確な形で日本列島が把握できたことになります。ただ土地の高低の測定されていません。


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